東京に住んでおられた、黒田家14代当主・故黒田長禮公に初めてお会いしたのは、40年ほど前になるだろうか。
私は兵庫県姫路市内の妻鹿で生まれ育った者ですが、当時青年団の文化部長を経て、「故郷を探る」と称して、妻鹿城史の編集に携わっていました。
妻鹿氏は元弘の頃(1300年代)功山城(妻鹿城)の城主で、赤松円心の姪婿とされる、太平記で有名な妻鹿孫三郎長宗が城主でありました。のち妻鹿家が続きあと母里太兵衛に繋がる母里氏の先祖が妻鹿城(国府山城)を引き継ぎ、守ったとされています。
のち、1500年代には、黒田職隆(くろだもとたか)と、その子、官兵衛と城主がつづきます。
その関係上、黒田家を一度は訪問し、調べ物をしたい希望を持っていまして、そのことを当時黒田家と親交のあった、御着の郷土史家、故井上重数さまに相談すると、黒田家の家令をされていた、東京の故、久世重三郎氏を紹介されてその方を尋ねなさいとのことであった。
井上様が事前に連絡されていた久世氏を広尾の自宅に単身訪ねました。久世様はその頃で80歳を過ぎたご年齢だったろうか、温厚な温かい人柄であったと記憶している。
あとで知ったことであるが、お父上はかって、福岡市長をされた方とのことで、黒田武士の末裔の家系の方であった。
久世氏は、孫ほど年の違う生意気だったろう、の私を、本当にやさしく接していただきました。
そのうち、お上がご在邸だから面会されますかといって、赤坂の黒田邸まで電車で行きました。
当時、お上という人がどなたか判らぬまま、電車に揺られていたと思います。
赤坂の黒田邸の門をくぐると、間もなく大きな玄関につきました。久世様はと見ると、玄関に直立不動で最敬}をされているので、私も同じようにしていました。
すると、長い廊下の向こうから、着流しの老紳士がしずしずと出てこられました、その方は玄間の間で立ったままでした。
上目ずかいにお伺いすると、ほっそりとしたずいぶん背の高い人だな、の印象でした。
久世氏は最敬礼をされたまま、私を紹介して、播州妻鹿から来て、黒田の事を調べたい旨の話をされました。
その方は短く、そして優しく、「遠いところ良くきてくれました、妻鹿は黒田の墓があり良く世話になっている、今日は、ゆっくりして良く調べて下さい、」と言い残してまた奥に消えていかれました。
ほんの数分間の出来事でした。それは爽やかな風がそっと吹き抜けたようでした。
その日は黒田家の蔵を見せて頂きました、そこには、母里太兵衛が呑みとったとされる、日本号の大身槍もあった様に思います。それは後に長禮公が福岡に寄贈したものですが当時は黒田家にありました。
いまから思えば、黒田家も戦時中は戦災に会い、蔵はほとんど焼失したようですが、一番大事な蔵は奇跡的に残ったようで、如水公以降のそれぞれの時代の宝物がその蔵にあったとようです。
現在その殆ど全てを福岡に寄贈されて、今は福岡市博物館に保管されています。
その長禮公が昭和53年に89歳で亡くなったと新聞報道で知りました。
そして公が昭和天皇のお妃・良子(香淳皇后)の従兄妹であることも、また薩摩・島津家/藤堂家の血統をつぐ方であり、筑前52万石の当主でもあり、元侯爵家・東京帝国大学を卒業・日本の野鳥研究の草分け的存在の博士とも知りました。
私にとっては、青年期のどこの馬の骨か、何もわからない若造が、恐れ多くも黒田宗家を訪ね親切にご対応いただいた事がいまだに忘れられません。
年を経て、この播磨の地で黒田官兵衛とそれに繋がる人々を顕彰したいと思うようになったのも、この長禮公とのご出会いがあったからだと思います。
青年期にあったカルチャーショック(こんな世界もあるのだ)と黒田家の温かい雰囲気に私は官兵衛公とお会いした気持ちでした。
その後、その子息15代長久公や・次代長高公に接するにつけ、長禮公から受けた印象と変わることのない黒田家があります。
・・・今の時代に官兵衛公は黒田家の中で生きておられる、・・・
私はそれが本当にうれしいのです。
長久公も90歳になられました、近年お病気をされたようですがご健在です。
公は父上に次いで、日本野鳥の権威です、また著書も多く哲学者でもあります。また日本の有数のナチュラリストです。鳥絵や自然の絵を得意とする画家でもあります。
いつまでもご健康・ご長寿を願い、黒田家ご一族が末永くご平安であることを願う者の一人です。
【この稿は“播磨の黒田武士顕彰会の会報”に掲載されたものを一部改稿して転載しました。】
―結びに代えてー
これまで機会を与えられて、黒田家・官兵衛を語ってきた、退職後2003に官兵衛没400年の菩提寺の博多の崇福寺での法要の10月26日に播州黒田武士の館を会開館した。
これらの出発点はこの稿に述べた黒田長禮公にお会いしたのがご縁であったかなあと思っている。
黒田家、官兵衛を追っかけて40年、人間の出会いほど不思議な縁で結ばれていることをしみじみ感じている。
私の播州黒田武士の館もそうたいしたものを展示しているわけではないが、自分の実力以上のものが詰まっている。
まず黒田宗家との交わり15代長久公や16代長高公には本当に温かく見守っていただいている、残念乍ら長久公は今年2月に亡くなられました。公の青山葬儀場での葬儀には福岡・中津・木之本町などゆかりの懐かしい方々ともお逢いできた。
また、歴史研究家の東京の本山一城氏(東京の黒田武士の館の館主)との交わりや、遠近、黒田官兵衛のファンがこの館に立ち寄ってくれる。その中での交わりや情報は私の貴重な心の財産になっている。
2006年姫路市が姫路お城まつりに黒田武士里帰りパレードの提案、我々はそれを受けて、うけ皿として、播磨の黒田武士顕彰会を立ち上げた。
2007にはそのパレードの先頭に「官兵衛を大河ドラマへ」の垂れ幕を掲げた。
2008秋には姫路市長を会長に【官兵衛を大河ドラマへ誘致の会】が発足した。
2009には福岡市・中津市・宇佐市などゆかりの地へ【誘致の会】の会長姫路市長や関係者が首長を訪問、活発な誘致活動が始まった。
これらのゆかりの地の関係の方々の支持を得て、大河ドラへの小さな流れが、大きな大河への流れになればと願っている。
黒田官兵衛の【如水哲学】が全国に発信され、その温かい心や正しい心がこの国に広がればと願っている。
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