Vol.1 人材日本
グローバル人材が国や組織を興す
総選挙も終わり、ある政党には国民の厳しい鉄槌が下された。これが民意というものであろうか。
私が青年のころあこがれた政治家が居た。アメリカ合衆国の第35代大統領J.F.ケネディだ。
41歳の若い彼はその就任演説でこの様に述べた。

ケネディ大統領就任演説の原点
“Ask not what your country can do for you,
Ask what you can do for your country”

これは皆さんよくご存知のものであるが、要約すると「国家が諸君の為に何をしてくれるかと問い給うな、諸君が国家の為に何が出来るか、問い給え」ということであろうか。
このケネディの演説に影響を与えたとする江戸時代の政治家が戦国武将の上杉謙信に繋がる
江戸時代の上杉家の当主、上杉鷹山と言われている。
ケネディは上杉鷹山を世界のなかでも「最高の指導者として」尊敬させ、「是非会って教えを乞いたい」と言わしめた人物であった。
その上杉鷹山の玉言が「伝国の辞」に記されている。これは鷹山が藩主を引退時に次代に君主としての心得を贈ったとされる。即ち

一 国家は先祖より子孫へ伝え候国家にて、我私すべきには之なく候
一 人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には之なく候
一 国家人民の為に立てたる君にして、君の為に立てたる国家人民には之なく候
私見であるがこの上杉鷹山に少なからずの影響を与えたと思われる戦国武将がいる、黒田官兵衛孝高である。
今、この黒田官兵衛をNHKの大河ドラマへ誘致の運動が私が住む姫路市を中心とする播磨や、あとで入封したゆかりの地、中津市や福岡市で起こっている。
では何故、今、黒田官兵衛か?・・・上杉鷹山に繋げて考えてみたい。

鷹山は1751年今の宮崎県の日向高鍋城主の子として生まれた。今から260程前のことである。
官兵衛が生まれたのは1546年であるから官兵衛より200年程あとの人である。
少しややこしくなるが、鷹山は官兵衛と血のつながった黒田武士だった。
官兵衛の長男、黒田長政(筑前・初代藩主)は4人の息子を遺した、長男は2代目の黒田忠之、3男の長興は秋月5万石、4男高政は直方東蓮寺4万石を継ぐ、その秋月の系統と婚姻したのが高鍋藩主秋月種美だった
(秋月4代藩主・黒田長貞の娘・春姫)、その二男があとで上杉を継ぐ鷹山である。
黒田長政は、関ヶ原で徳川方につき、戦功第一の武将である。その系統に上杉鷹山が居たのだ。

「上杉鷹山・(上杉治憲)は、江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけをつくり、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は初め勝興、後に治憲だが、藩主引退後の号である鷹山のほうが著名である」フリー百科事典

鷹山の業績としては,現在NHK大河ドラマの直江兼続でご存知の方も多いとおもうが、謙信亡き後を継いだ上杉景勝が関ヶ原後、徳川政権より石高を120万石から30万石と4分の1に減らされて藩財政に深刻な負担を与えていた、加えて天災などにより危機的状況にあったのを倹約やら産業振興により藩財政を立て直した手腕が評価された。

一方、黒田官兵衛は姫路。御着の小寺という老舗の中小企業の専務クラスから、新興大企業織田信長の重役秀吉と組み天下取りの大芝居をやる。持ち前の頭の良さと人柄の良さ、行動力で難問を次々に解決してゆく。中でも本能寺の変での秀吉への進言は秀吉をして天下取りのターニングポイントとして高く評価される。
 その前には秀吉の播州進攻時には自らの姫路城を明け渡し、拠点としたその姫路城は秀吉の天下とりの重要拠点となった。関ヶ原後、その城は徳川家康の娘婿の池田輝政の建てるところとなり現在の名城、姫路城が残った。

 最近の研究では姫路の発見者としての黒田官兵衛の評価が見直されている。
当初秀吉は播州の三木城を中国攻めの拠点と考えていたようであるが、姫路を拠点にするように進言したのは、黒田官兵衛と言われる。その理由は東西南北の街道の交通の要と海と播州平野だと言われている。
秀吉の姫路築城の延長線上に輝政の築城があった。いわゆる、姫路の恩人が黒田官兵衛だとする。

秀吉の軍師として、多くの功績をあげた官兵衛であるが、自らは余り秀吉に評価さていない、
播磨時代は播州山崎に1万石(一説には2万1千石)豊前・中津では12.3万石に封じられた。
 秀吉の天下統一を果たした小田原城攻めでは、官兵衛は北条に講和を勧めこれを成功させた。
秀吉の死後、関ヶ原では自らは参戦せず、息子の長政に東軍に従軍させた。
自らは九州にいた官兵衛(如水)は関ヶ原で東西両軍の戦が長引けば、自分は九州を平らげて中国道を一気に駆け上がり戦で疲弊した両軍に対峙するという策である。いわゆる「黒田官兵衛の野望」である。
 が、関ヶ原の戦いは息子長政の功績もあり、たった1日で決した。そして論功行賞で長政に筑前52万国(今の福岡県)が家康より与えられた。官兵衛の政権への夢は断たれた。

天下取りの夢破れた官兵衛・彼はどのような夢を描いていたのであろうか?
彼は2人の天下人を真近かで見ている、一人は織田信長であり一人は豊臣秀吉である。傍らには徳川家康が居た。
もし官兵衛が政権を取り、その描く天下は織田信長でもない、秀吉でもない世界であったろう。
黒田官兵衛を書いた、司馬遼太郎の播磨灘物語で司馬さんは、あとがきに次のように書いている。
【官兵衛ほど、五彩のステンド・グラスのような華麗な世界を持っていた男は少ないであろう。「そういう世界にゆきたい」という思いが、官兵衛の生涯をひきずっていたかのようであう。その光線がガラスに透過してきらめく五彩の世界とは、ありきたりの栄達でも征服欲でも、ごく単純な天下取りの夢でもなかった。目でもって見て見慣れてしまっている播州野の、あるいは姫路村の、あるいは御着城の山河とくらしと人間のいるあらゆる風景よりも、せめて一筋でも強烈な光線がそこに射しこんでいる世界はないかという夢想といっていい】・・・官兵衛はキリシタン大名であったから、思い描く世界は神の国であったか・・・

黒田官兵衛は近年まで、坂口安吾がかいた「2流の人」に代表される、『権謀実数』『戦争狂』『天下のドサクサを狙い、ドサクサまぎれの火事場稼ぎを当てにしている淪落の野心児であり、自信のない自惚れ児だった』と書いた見方が多くあったと思っている。が

一方、播磨灘物語で司馬さんは温かい目で官兵衛を描いた、そして結びに(黒田官兵衛は、街角で別れたあとも余韻に残る存在だ)というのです。そして『友人にもつならこういう男を持ちたい』とも。
その播磨灘物語り以降、最近ではNHKでは『戦国最強のNO2黒田官兵衛』と描き、天下も狙った可能性もある最強の人物として登場させた。安部龍太郎は『風の如く水の如く』で策謀をめぐらす官兵衛を書いた。いずれも官兵衛という人物の見方が大きく変換されてきた。
また、官兵衛の生まれ故郷の播磨では、当然のこととはいえ播磨学研究所長中元孝迪氏を中心に播磨の雑誌『バンカル』に官兵衛特集号を03/09と2回に亘って登場させて、稀代の軍師黒田官兵衛・黒田官兵衛の野望・その男天下に秘めたる野望あり・・などと論証して官兵衛を今までの脇役から主役座へとの転換を図っている。
 今日的なこれらの論証は、私が若い時からあこがれつづけてきた私自身の官兵衛の実像に近い。

官兵衛は多くの言葉を遺しているが、とりわけ次の言葉で本項を締めくくりたい。
一 神明の罰より、主君の罰おそるべし、主君の罰より、臣下万民の罰おそるべし。その故は、神明の罰は、
  祈りて免れるべし。主君の罰は、詫びて赦しを受くべし。ただ、臣下万民に疎んぜられては、祈りても詫びても免れがたし。かならず国家を失うにいたる、最も恐るべし。

冒頭に書いたケネディ元大統領の言葉、上杉鷹山・黒田官兵衛、の遺したもの。いずれそれぞれの頭にあるのは、名もない塗炭の苦しみを味わう、一般国民人民である。
新しい政権が発足して数カ月、すでに、ほころびも見え隠れしているが、我々は少し温かい目、気長に見守る必要があるとは思うが、しかし為政者がもし自己保身・自己利益の故に国民、人民目線から政治が外れるならば、必ず新たな鉄槌が下るであろう。
それらのことを身を持って体験、熟知している、平成の黒田官兵衛の登場を私は切に待ち望むものである。


  Vol.2 官兵衛を支えつづけた女(ひと)
 

幸圓(こうえん)とは戦国武将で歴代姫路城主ただ一人姫路城生まれの稀代の軍師といわれる黒田官兵衛(あと如水)の内室、つまり奥さんその人である、
名前は光(てる)としても残っているが、雅号の幸圓として本章を統一した。
7―8年ぐらい前だったろうか、市内で官兵衛をNHKの大河ドラマへの運動があった。
その時、有志が集まり具体的な話のなかで、NHKが黒田官兵衛のドラマ化に消極的なのは、官兵衛には色気が無いことが理由の一つとの意見があった。
なるほど、昨年の篤姫にしろ、先の風林火山にしろ、きらびやかな女性群を登場させ、それなりの色気はあるような感じはした。
だが、官兵衛の周りには女性が見当たらないように見えるが、本当に居なかったのだろうか?
いたいた、奥さんだ、官兵衛の色気とは、との問いに対する私なりの反論である。
幸圓、この方の事はよく判っていないとうゆうか、まったくわからないと言ったほうが良いかも知れない。が僅かな足跡は推測される。私の妄想も含め、今はお会いでき無い、その人となりを追っかけてみる。

官兵衛は今から460年前の天文15年(1546)姫路城で生まれた。
幸圓は官兵衛とは7歳違いの天文22年に生まれた。今の加古川市の志方城主櫛橋伊定の娘で、伊定は早くから官兵衛に目をつけ、結婚の1年前には官兵衛のトレードマークの赤合子形(あかごうすなり)の兜と胴丸具足を贈ったとされています。
2人は御着城主の小寺政職の媒酌で結婚しました、その時、幸圓15歳、今では高校1年生ぐらいでした。
夫婦中は良く、1年後嫡男・黒田長政が生まれます。
ノミの夫婦とされ、官兵衛は風采の上がらない小柄な男で幸圓は大柄な女性であったと推測されます。それは、僅かにのこされた幸圓の筆跡の堂々として闊達な文体から判るようです。
それと、長男の黒田長政が大きな男であったと推定されるからである。

黒田家の史料を編纂した、貝原益軒の『黒田家譜』によれば、幸圓は「容儀人にすぐれ、うるわし才徳兼備」と書かれています、いわゆる美人で賢く、家臣団からも慕たわれた女性の鏡のような人であったという。
戦国時代の女性、とりわけ武将の妻はそれぞれそれなりの苦労があったと思います。常に戦場、お互いの命のやりとりのなかで、女性たりとも、日々安寧なわけがない。
特に官兵衛である、自身の才能のために、いちいち日々の出来事を女房に相談をしながら、事を決めていたとは、到底思われない。がお互いの信頼関係は揺るがなかったのだろう。
また、官兵衛は側室を置かなかったから、秀吉や他の武将のように、多くの女性に囲まれながら、やきもちや妬みに気を使いながらの生活もなかったろう。
しかし、官兵衛ほどの男の妻である。私には官兵衛以上の才覚と官兵衛をも包み込む母親のような、大きな愛情の持ち主だったのではないかと思っている。

その幸圓の手のひらで、官兵衛は軍師とゆう、芝居を安心して演じていたのかも知れない。
その理由の一つに、官兵衛は幼くして母、明石氏を亡くしている。母親への思慕は人一倍であったと伝わる。
幸圓も野望渦巻く戦乱の世、例に洩れず相当な心痛があった。
官兵衛が荒木村重の謀反で信長に背いた事に説得に出向き、そのまま土牢に約1年間囚われた時期です。その時は長男の松寿丸(長政)が信長の人質として、信長は官兵衛の裏切りと思い、松寿丸の殺害を命じます。官兵衛や長男の生死も判らない黒田家の危機的状況を幸圓は父職隆や家臣団とどの様に乗り切ったのだろう。
 秀吉が朝鮮に侵攻した文禄の役の時に官兵衛が石田三成のざん訴にあい秀吉に切腹を命ぜられた時や、次男の熊之助が官兵衛に無断で朝鮮に渡ろうとして、海難事故で死亡した時でした、熊之助は長政と14歳も違う久し振りの子供で幸圓の悲しみも如何ばかりかと推察します。

関ケ原の戦いの前、大坂の町は石田・徳川方とで騒然としていました。その頃、幸圓と長政の妻・ねね姫が大坂天満屋敷に居ました。石田方は徳川方の人質を狙い、徳川陣営の女子を捕えようとしていました。幸圓とねね姫は木箱に詰められて、天満屋敷から安治川を渡り母里太兵衛や栗山利安らよって助けられて、中津城まで命からがら海路脱出します。
その日は細川ガラシャ夫人が大坂・玉造りの屋敷に火を放ち、家臣に自の胸を突かせて死んだ日でもあります。

官兵衛は59歳で亡くなりましたが、幸圓は官兵衛の死後23年生き75歳で亡くなっています。息子の長政より長生きしました。
天下取りの夢が破れた官兵衛は福岡城内で幸圓と侘び住まいをはじめる。

この頃が幸圓の一番幸せな時期であったのだろう。
作家の小石房子さんは、幸圓の事を「私もずいぶんいろいろな女性を調べて書いてきましたけれども、幸圓ほどの幸せな戦国婦人は他におりません」と言っています。
この播磨の地で天下を狙っていた男がいた。それも今でいう、御着の小寺とゆう中小企業の専務クラスの人物が新興大企業の織田信長の重役・秀吉と組んで、天下取りの大芝居をやる。
晩年には九州の地から自らが天下を目指す。
官兵衛には、播磨灘物語(播磨)・・周防灘物語(中津)・・玄海灘物語(福岡)があります。
これほど男として本懐なことがあるだろうか。これは大河ドラマである。
3年前の夏、NHKの大河を目的の一つとして、官兵衛フアンの集い、播磨の黒田武士顕彰会を仲間と立ち上げた、その第一弾として、姫路お城まつりに『黒田武士里帰りパレード』を実施した。
官兵衛役には黒田宗家の16代黒田長高公にお願いしました、一昨年からは大河ドラマを意識して、妻・幸圓を馬上で登場願った。人選には『容儀人にすぐれ、うるわし、才徳兼備』の乗馬経験者の女性を口説き落とした。
また、昨年からは長政の弟、熊之助も登場した。
これでNHKもわれわれの意を汲んでくれるのではないかと密に思っている。

昨年の9月には福岡市博『黒田長政と24騎展』で幸圓の画像が初めて公開された。
また、これからも私の幸圓探しは続く・・・・・。
世の中は男と女しかいない。色気のない人生ドラマなど無いと思うが。NHKさん。


  Vol.3 黒田家14代・黒田長禮
(くろだながみち)公のこと)
最終回

東京に住んでおられた、黒田家14代当主・故黒田長禮公に初めてお会いしたのは、40年ほど前になるだろうか。
私は兵庫県姫路市内の妻鹿で生まれ育った者ですが、当時青年団の文化部長を経て、「故郷を探る」と称して、妻鹿城史の編集に携わっていました。
妻鹿氏は元弘の頃(1300年代)功山城(妻鹿城)の城主で、赤松円心の姪婿とされる、太平記で有名な妻鹿孫三郎長宗が城主でありました。のち妻鹿家が続きあと母里太兵衛に繋がる母里氏の先祖が妻鹿城(国府山城)を引き継ぎ、守ったとされています。

のち、1500年代には、黒田職隆(くろだもとたか)と、その子、官兵衛と城主がつづきます。
その関係上、黒田家を一度は訪問し、調べ物をしたい希望を持っていまして、そのことを当時黒田家と親交のあった、御着の郷土史家、故井上重数さまに相談すると、黒田家の家令をされていた、東京の故、久世重三郎氏を紹介されてその方を尋ねなさいとのことであった。

井上様が事前に連絡されていた久世氏を広尾の自宅に単身訪ねました。久世様はその頃で80歳を過ぎたご年齢だったろうか、温厚な温かい人柄であったと記憶している。
あとで知ったことであるが、お父上はかって、福岡市長をされた方とのことで、黒田武士の末裔の家系の方であった。
久世氏は、孫ほど年の違う生意気だったろう、の私を、本当にやさしく接していただきました。
そのうち、お上がご在邸だから面会されますかといって、赤坂の黒田邸まで電車で行きました。
当時、お上という人がどなたか判らぬまま、電車に揺られていたと思います。
赤坂の黒田邸の門をくぐると、間もなく大きな玄関につきました。久世様はと見ると、玄関に直立不動で最敬}をされているので、私も同じようにしていました。
すると、長い廊下の向こうから、着流しの老紳士がしずしずと出てこられました、その方は玄間の間で立ったままでした。
上目ずかいにお伺いすると、ほっそりとしたずいぶん背の高い人だな、の印象でした。
久世氏は最敬礼をされたまま、私を紹介して、播州妻鹿から来て、黒田の事を調べたい旨の話をされました。
その方は短く、そして優しく、「遠いところ良くきてくれました、妻鹿は黒田の墓があり良く世話になっている、今日は、ゆっくりして良く調べて下さい、」と言い残してまた奥に消えていかれました。
ほんの数分間の出来事でした。それは爽やかな風がそっと吹き抜けたようでした。
その日は黒田家の蔵を見せて頂きました、そこには、母里太兵衛が呑みとったとされる、日本号の大身槍もあった様に思います。それは後に長禮公が福岡に寄贈したものですが当時は黒田家にありました。
いまから思えば、黒田家も戦時中は戦災に会い、蔵はほとんど焼失したようですが、一番大事な蔵は奇跡的に残ったようで、如水公以降のそれぞれの時代の宝物がその蔵にあったとようです。

現在その殆ど全てを福岡に寄贈されて、今は福岡市博物館に保管されています。
その長禮公が昭和53年に89歳で亡くなったと新聞報道で知りました。
そして公が昭和天皇のお妃・良子(香淳皇后)の従兄妹であることも、また薩摩・島津家/藤堂家の血統をつぐ方であり、筑前52万石の当主でもあり、元侯爵家・東京帝国大学を卒業・日本の野鳥研究の草分け的存在の博士とも知りました。
私にとっては、青年期のどこの馬の骨か、何もわからない若造が、恐れ多くも黒田宗家を訪ね親切にご対応いただいた事がいまだに忘れられません。

年を経て、この播磨の地で黒田官兵衛とそれに繋がる人々を顕彰したいと思うようになったのも、この長禮公とのご出会いがあったからだと思います。
青年期にあったカルチャーショック(こんな世界もあるのだ)と黒田家の温かい雰囲気に私は官兵衛公とお会いした気持ちでした。
その後、その子息15代長久公や・次代長高公に接するにつけ、長禮公から受けた印象と変わることのない黒田家があります。
・・・今の時代に官兵衛公は黒田家の中で生きておられる、・・・
私はそれが本当にうれしいのです。
長久公も90歳になられました、近年お病気をされたようですがご健在です。
公は父上に次いで、日本野鳥の権威です、また著書も多く哲学者でもあります。また日本の有数のナチュラリストです。鳥絵や自然の絵を得意とする画家でもあります。
いつまでもご健康・ご長寿を願い、黒田家ご一族が末永くご平安であることを願う者の一人です。
【この稿は“播磨の黒田武士顕彰会の会報”に掲載されたものを一部改稿して転載しました。】

―結びに代えてー
これまで機会を与えられて、黒田家・官兵衛を語ってきた、退職後2003に官兵衛没400年の菩提寺の博多の崇福寺での法要の10月26日に播州黒田武士の館を会開館した。
これらの出発点はこの稿に述べた黒田長禮公にお会いしたのがご縁であったかなあと思っている。
黒田家、官兵衛を追っかけて40年、人間の出会いほど不思議な縁で結ばれていることをしみじみ感じている。

私の播州黒田武士の館もそうたいしたものを展示しているわけではないが、自分の実力以上のものが詰まっている。
まず黒田宗家との交わり15代長久公や16代長高公には本当に温かく見守っていただいている、残念乍ら長久公は今年2月に亡くなられました。公の青山葬儀場での葬儀には福岡・中津・木之本町などゆかりの懐かしい方々ともお逢いできた。
また、歴史研究家の東京の本山一城氏(東京の黒田武士の館の館主)との交わりや、遠近、黒田官兵衛のファンがこの館に立ち寄ってくれる。その中での交わりや情報は私の貴重な心の財産になっている。

2006年姫路市が姫路お城まつりに黒田武士里帰りパレードの提案、我々はそれを受けて、うけ皿として、播磨の黒田武士顕彰会を立ち上げた。
2007にはそのパレードの先頭に「官兵衛を大河ドラマへ」の垂れ幕を掲げた。
2008秋には姫路市長を会長に【官兵衛を大河ドラマへ誘致の会】が発足した。
 2009には福岡市・中津市・宇佐市などゆかりの地へ【誘致の会】の会長姫路市長や関係者が首長を訪問、活発な誘致活動が始まった。
これらのゆかりの地の関係の方々の支持を得て、大河ドラへの小さな流れが、大きな大河への流れになればと願っている。

黒田官兵衛の【如水哲学】が全国に発信され、その温かい心や正しい心がこの国に広がればと願っている。

 
播州黒田武士の館・館主  
播磨の黒田武士顕彰会・副会長
  (事務局長)
 神 澤 輝 和
姫路市飾磨区妻鹿東海町107